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文明開化の一翼を担った総合商社として、世界の名車と共に、
時代の最先端を走り続ける。
文明開化の契機となった日米修好通商条約から3年後の1861年。開港から間もない横浜に、ふたりのイギリス人が降り立った。ふたりの名は、フレデリック・コーンズとウィリアム・アスピナル。彼らは外国人居留地に「アスピナル・コーンズ・アンド・カンパニー」を設立し、日本産の絹と茶の輸出業に着手する。やがてその事業は、絹製品、金属、石炭などの輸入業にも拡大。現在では、スーパーカーとハイラグジュアリーカーのディラーとしてイメージされることの多いコーンズだが、そのルーツには、貿易によって日本の近代化に貢献した国際商社の姿があった。
文献を紐解くとコーンズが手がけた事業が驚くほどバラエティに富んでいたことが分かる。そのひとつが保険業だ。同社は大政奉還翌年の1868年に、英国の巨大保険会社ロイズ初の日本代理店に専任され、検査海損業務を開始している。貿易といえば、あくまでモノが主役だった時代。知的サービス業にいち早く着目した創業者のまなざしには、後にコーンズの企業理念となる「高品質と先進性」が象徴されているといえるだろう。また時を下って戦後には、世界初のジェット旅客機として知られる英国デ・ハビラント社製「コメット」の取り扱いを開始。また身近なところでは、米ジョンソン・エンド・ジョンソンのバンドエイドとベビーパウダーを大ヒットさせたのも、輸入代理店であったコーンズの功績である。
意外と知られていないことだが、実は現在もコーンズ・グループの事業は多岐にわたる。黎明期からのコア事業である海事・海図事業、保険、エレクトロニクス、産業機材、酪農設備・酪農機械、バイオガスプラント、キッチン用品などの一般消費財…。グループ全体で約1500名の従業員を擁すコーンズは、今も様々な分野の最先端を媒介し、世界と日本を結んでいるのだ。
1960年代に始まった自動車事業は、コーンズの「先進性=時代の最先端」を象徴する事業といえるだろう。同社は1964年に、現在に続く主軸であるロールス・ロイスとベントレーの輸入権を獲得。1964年といえば、東京五輪によって国民が戦後復興を実感した年。とはいえ当時の国内事情を考えれば、英国製のラグジュアリーカーを手がけること自体、時代の一歩先をゆく発想だったにちがいない。
ベントレー「フライングスパーV8」
1976年にフェラーリ、そして2013年にランボルギーニを加え、現在コーンズは4車種を軸に自動車事業を展開している。21世紀以降、長年培った輸入業務は各メーカー直系の日本法人に移管されたが、販売業務に特化した今も、日本のエンスージァストの信頼は変わらない。スーパーカーとハイラグジュアリーカーの老舗高級百貨店。コーンズはこれからも、世界に誇る名車たちと共に、時代の最先端を走り続ける。
CORNES HISTORY
1861
英国人フレデリック・コーンズとウィリアム・アスピノールが横浜の外国人居留地に“アスピノール・コーンズ・アンド・カンパニー”を設立。絹と茶の輸出業からスタートして、後に絹製品、金属、消費財、石炭、ケロシンなどの輸入業に拡大。
1868
神戸港の開港と同じ年、神戸支店を開設。英国ロイズの日本初の代理店になる。
1873
アスピノールが引退。屋号をコーンズ・アンド・カンパニーに改名。
1927
フレデリック・コーンズが死去。享年89歳。
1947
終戦後、香港のWheelock Marden and Companyグループの一員として日本での事業再開。
1952
世界初のジェット旅客機である英国デ・ハビランド社製「コメット」の売り込みを開始。
1959
ロールス・ロイス&ベントレー・カーズ(当時)の輸入権を獲得、自動車事業に参入。
1964
世界初のジェット旅客機である英国デ・ハビランド社製「コメット」の売り込みを開始。
1976
フェラーリ総代理店に。同年に日本初のF1グランプリ開催される。
1990
損害保険、生命保険の募集代理店業務を開始。
1995
阪神淡路大震災で英国EEV社製赤外線カメラ「ARGUS」が人命救助・捜索赤外線カメラとして活躍。
1999
家畜の排せつ物から発生するメタンガスをエネルイギー化するバイオガスプラント事業に参入。
2012
自動車事業を分社化して、コーンズ・モータース株式会社として営業開始。
2013
ランボルギーニの取り扱いを開始して、現在の4ブランド体制に。