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VANが灯したひかり。
アイビー教教祖として若者に絶大な影響を与えた石津謙介
VANが青山に移転した昭和38年、青山三丁目交差点にはまだ信号がなかった。そのため青山通りは夕方になると交通渋滞が激しく、車の進路を巡る喧嘩が絶えなかった。後のベルコモンズの敷地には、都心ではすでに珍しかった大きな畑。日本橋からやって来た総勢70名の社員たちは、“山手の下町”とでもいうべきその様子に随分驚いたそうだ。
ファッションタウン。青山を象徴するこのイメージは、彼らを率いて街にやって来たひとりの男によって創られたといっていい。アイビー教教祖と呼ばれたVANの石津謙介その人である。
VANが提唱したアイビーは、元々1950年代に、アメリカ東海岸の名門8大学、いわゆるアイビーリーグの学生の間で流行ったファッションだ。石津がアイビーを知るきっかけとなったのは、終戦間もない中国天津で出会った元アイビーリーガー。日本にはない洗練されたアイテムや着こなしもさることながら、父の代、祖父の代の洋服を大切に受け継いでゆく彼らのスタイル、石津自身の言葉を借りれば“精神的に長持ちする価値観”に深く感銘を受けたという。
青山移転翌年の昭和39年頃には、VANの洋服に身を包んだみゆき族が銀座に登場し、アイビーは社会現象となる。事態を問題視した築地警察署は、その年のオリンピックを見据えた風紀取締りにより若者たちの一斉補導に踏み切る。さらに銀座の商店街からはお門違いの苦情が殺到。そこで石津が考えたのが、「アイビー大集合」という集会だった。このとき石津が「目的なく銀座に集まるのはやめてほしい」と訴えたことでみゆき族は消滅。かわりに、石津が提唱した普遍的価値としてのアイビーが、若者文化に浸透し始める。
VANが青山に移転したのにはふたつの理由があった。ひとつはスタジアムがあり、東京五輪を間近に控えたスポーティな街であったこと。もうひとつは、緑豊かな都心の高台であったこと。高台の街で文化をつくれば、やがてそれは渋谷、原宿、赤坂、六本木へ下っていくとも考えていたらしい。
そしてその目論見通り、程なく青山にはVANの看板が溢れ、その影響は、周辺はおろか全国へと波及してゆく。街がVAN TOWN AOYAMAと呼ばれた最盛期には、事務所が11カ所に、店舗が8カ所。その業態はアパレルのみに留まらず、イタリアの家具メーカー「アルフレックス」のショールーム、イタリア製エスプレッソマシンを導入した日本初の立ち飲みカフェ「356」、家庭雑貨の「オレンジハウス」、コンサートや演劇などを99円で観られた「99ホール」など、VANは当時最先端の文化と遊びの発信者として、青山から日本を席巻した。
1960年代半ばの石津謙介
客席99席、料金1人99円。演劇、ボクシング、ファッションショーなど多彩な催しが行われた
やがて昭和53年、事業拡大が裏目に出たVANは倒産し、栄光の三文字は青山から姿を消す。しかしこの街からファッションの灯火が消えることはなかった。石津を慕ったコシノジュンコ、三宅一生、高田賢三、川久保令、山本耀二らが後に続いたからだ。そして2005年、石津は世界のファッションタウンとなった青山の進化を見届け、93歳で大往生する。病床でも決してお洒落を忘れなかった石津が最期に着ていたのは、長年親交のあったイッセイ・ミヤケのシャツだった。