SPECIAL INTERVIEW
あるべき自分で、いさせてくれる街。
おそらく今、日本で最も有名な料理人のひとりである道場六三郎さん。80歳を越えてなお進化する料理人としての人生は、戦後間もない頃の銀座から始まりました。あれから、約60年。道場さんの料理とおもてなしは、銀座の街と人によって磨かれ続けています。
戦後間もない銀座から、料理人の人生がはじまった。
僕は元々石川県山中温泉の生まれで、20歳の時に、銀座の「社交割烹 くろかべ」という店で料理人の第一歩を踏み出しました。「くろかべ」は、当時「ロマンス」や「映画スター」という雑誌を出版していたロマンス社の重役が開いた店で、お客さまの大半は会社が接待する文化人や映画関係者という独特の環境でした。映画スターの来店も多く、竜崎一郎さんや池辺良さん、杉洋子さんをはじめとする「青い山脈」の面々、その他にも高田稔さん、高峰秀子さん、津島恵子さんなどがよくお見えになっていました。僕は皆さんに随分とかわいがってもらい、中でも高田稔さんには洋服と靴を頂いて、サイズの合わない靴を喜んで履いていたものです(笑)。
「くろかべ」は、1階に6席のカウンターと、4人掛のテーブルが5つ、2階にお座敷という小さな店で、厨房は親父さんと僕の二人で切り盛りしていました。料理人としては新米でしたが、元々僕は魚屋で2年の修行を積んでいたこともあり、1年目にしては、かなり多くの仕事を経験させてもらったように思います。
お店の場所は旧電通本社のすぐ横でした。僕がいたのは昭和25年から26年にかけての1年ちょっとですが、戦後間もない中央通りには都電が走っていて、歩道には闇市の露店がずらりと並んでいました。よく覚えているのは、昭和26年の正月二日に大雪があっこと。8丁目のリクルートのところに「ショーボート」という有名な海軍キャバレーがあったのですが、横なぐりに大雪が吹き付けて、建物の正面に背丈くらいまで雪が積もったのです。東京でこんな雪は見たことがないと、周りの人が随分騒いでいましたね。それから新橋との間を通る首都高の下には川が流れていました。博品館の向こうに船着き場があって、たしか両国まで行く巡航船が出ていた。今思うと懐かしい銀座の風景です。
関西料理を源流とする銀座の日本料理。
「くろかべ」を辞めた後、僕は神戸、金沢で修行を積み、1959年に赤坂の「常盤家」に料理長として招かれました。その後、銀座の「トンボ」を経て、1971年に創業したのが「ろくさん亭」です。元々銀座という街は、昭和の初めに、「金田中」の岡副さんや「浜作」の塩見さん、先頃閉店した「出井」の出井伸八さんたちが創り上げた関西料理の街。昔の大企業の社長は贔屓の料理人を囲う風習があって、本社を東京へ移転する際に料理人を呼び寄せることも多かったようです。今では当たり前となったカウンタースタイルの割烹も当時の関西料理人が持ち込んだもの。この辺りは、もうほとんどが関西料理の店で、「ろくさん亭」を出した頃には、少なくとも80軒程の店があったと記憶しています。
銀座人の美意識が街の空気をつくっている。
早いもので「ろくさん亭」は、2015年で創業44周年を迎えます。そしてこの間、僕は銀座の諸先輩方から色々なことを教わりました。例えばいつも感心していたのは、彼らが決して外国製の高級車に乗らなかったこと。僕は初代なので割と気ままでしたが、やはり老舗の二代目・三代目の皆さんには、店の者がお客さまより良い車に乗るべきではないという暗黙のマナーがあったようです。
また生活の中の所作ひとつとっても、たとえば洗面台を使ったらきちんと拭き清めたり、小さなゴミが落ちていたら拾ったりと、良い習慣を身に付けている印象がありました。そういう一人ひとりの美意識が積み重なっていることが、銀座に流れる特別な空気の本質なのではないでしょうか。
料理のお師匠さんは、銀座のお客さま。
僕は自分の料理を“銀座の料理”だと思っています。かつてある外国人のお客さまの要望で、彼が苦手だという醤油を使わずに料理を作ったことがありますが、そういう様々な価値観に触れる中で、僕は日本料理の新たな可能性を見いだしてきました。そもそも銀座のお客さまは、あちこちで美味しいものを食べてきた人たち。そういう人たちと対峙する緊張感が、料理人としての成長を大きく促してくれました。僕のお師匠さんは、銀座に来る目と舌の肥えたお客さま。つまりは銀座という街が、僕の料理を磨き上げてくれたのかなとつくづく思うのです。
“忙人は老いず、流水は濁らず”。
料理の世界は奥深く、80歳を過ぎてもなお知らないことがたくさんあります。ただひとついえるのは、古き良きものをしっかりと受け継ぎながら、一方で新しい流れをしなやかに受け止めた、僕らしい日本料理を追求していきたいということ。最近は、「道場旬皿」という取り組みを通じ、世の中に新しい料理を発信していますが、やはり調理場に立っていることが僕の一番の幸せなのです。
僕は常々「忙人は老いず、流水は濁らず」という言葉を大切にしてきました。人間として生まれてきたからには、やはり完全燃焼したい。死ぬまできちんと働き、人生を愉しんで、生きたように死ぬのが僕の理想です。亡くなったキューピーの藤田さんに言われたのは、「80歳になったら、教育と教養やで」ということ。要するに“今日行く”ところと、“今日用”があることが大事なのです(笑)
あるべき自分を取り戻す“反省の場”。
20歳のときから銀座を見てきましたが、僕にとってこの街は“反省の場”であるような気がしています。例えばショーウィンドウに自分の影が映る。ちょっと腰が曲がっている。そこで「おっと、これはあかんな」と、あるべき自分を取り戻すわけです。またカウンターの前では、まな板映えから、包丁使い、箸使いまで、すべて舞台の上の役者だと思って細かな所作にまで気を配っています。街と人の美意識に自分の今を照らすことで、常にあるべき自分でいさせてくれる街。それが僕にとっての銀座です。
道場六三郎
1931年生まれ。石川県山中温泉出身。1950年、銀座「くろかべ」で料理人としての第一歩を踏み出し、その後、神戸、金沢で修行を重ねる。1971年に銀座「ろくさん亭」を開店。1993年からは、フジテレビ「料理の鉄人」で初代「和の鉄人」として活躍し、27勝3敗1引分けの輝かしい成績を収める。2000年、銀座に「懐食みちば」を開店。2007年、旭日小綬章授賞(勲四等)。2011年、80歳の節目に、和食の伝統と道場独自の心を伝える「道場旬皿」の取り組みを開始。
銀座ろくさん亭(日本料理)
銀座で愛されて43年。道場六三郎の料理哲学が詰まった「道場和食」のお店です。ビルの8・9階に広がる店内は、大きめの木製タイルやレトロモダンな照明器具が、昭和の懐かしい雰囲気を感じさせる空間。9階には落ち着いた雰囲気の個室、8階には厨房前で料理を愉しめるカウンター席も用意されています。おすすめは月替わりの献立が愉しめる「ろくさんコース」。旬の食材の持ち味を丁寧に生かした一皿一皿が、銀座の夜により豊かな時間を演出します。
銀座ろくさん亭
住所:中央区銀座8-8-7 第三ソワレド銀座ビル8・9F
電話:03-3571-1763
営業時間:17:00~22:30
定休日:日曜、祝日